法話691

見えない人の本心

福井市天王町・正善寺住職 藤井保興

煩悩具足

満員電車に乗った時でした。中年の女の人が、座っていた場所から急に立って、そばにいたおじいさんに「どうぞお座りになって下さい」と、親切に言っておりました。お年寄りは「おおきに」といって腰を下ろしました。
ここまではよく見られる光景ですね。私も、ここまではその女の人は「いい人だな」と感じると同時に、私だったらなかなか、分かっていても替わってあげられないなあーと反省さえしていたのです。
ところが、後が悪すぎました。席を譲った婦人の口から、とんでもない言葉が出てきて、私を失望させてしまったのです。
「私はこれでスーッとしましたわ。私は一日に一つ必ずよいことをするようにしているのです。今もお年寄りに席を譲ってあげましたし、本当にいいことした後は、気持ちがよろしゅうございますわね」。この言葉を聞いて、なんと心の貧しい人だろうなーと思いました。こんなことさえ言わなければ、その婦人のしたことは素晴らしかったのに。
その婦人の言葉を、しかも自慢気に聞いてしまった周りの人たちはほとんどあきれた顔をしました。しかし、この婦人だけでなく、この私も同じものを持っていることに気がつきました。私の心の中にも「自分のやったことは認めてほしい」という思いが少なからずあることに気がつきました。目に見える行いは美しくても、人からは見えない私の本心を見てみると「いやらしいな」と、自分がいやになります。心身ともにきれいになりきれないことを、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」といわれました。

法話691挿絵

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