法話677

苦悩の現世に通ず

春江町千歩寺・順教寺前住職 中臣徳恵

彼岸会を迎えて②

生死の迷いの世界に、いのちを持ちながら、彼岸の涅槃(ねはん)界につながる仏の命に帰順する時「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」、煩悩の苦しみに迷いつつも、この身体は変わらず、よく怒り、ぐちにとらわれ、自我にとらわれて、あさましい心ながら、如来の本願の命を頂くときこの煩悩抱えたまま、彼岸の世界へ必ず生まれることが約束されるのであります。
彼岸涅槃の悟りは、この迷い、生死の世界と断絶するにあらず、相対のまま絶対に包まれて、「不連続の連続」というか、不思議なるよろこびと転化するのであります。故に親鸞聖人は、「慶哉(よろこばしいかな)心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て念を難思(なんじ)の法海に流す」とよろこばれました。
如来のお光明に照育されて、虚仮(こけ)不実のこの世ながら、真実涅槃の彼岸に一歩一歩近づく日々とよろこばれました。彼岸の世界は浄土であり、真実永遠の悟りの世界であります。その彼岸は遠く離れているにあらず、この”シャバ”の環境に苦悩するまま、つながっているのであり、その接点は本願他力回向のお念仏であります。念仏は仏の命である。そのまま私の命となり、生死の迷いを乗り越えてお浄土に生まれるのです。「有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど心は浄土にあそぶなり」と親鸞聖人は歌われました。
お彼岸は、真実の世界をあこがれて修行する週間であるとともに、聞法(もんぼう)の週間、すなわち「真実」を聞く週間として最も適当した時節と言わねばなりません。

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