法話649

お浄土への道に喜び

坂井町御油田・演仙寺前住職 多田淳政

変わらない私

おみ法を聴くと、私の心は変わるのでしょうか、とよく聞かれることがあります。果たして変わるものでしょうか。
私自身の心を考えてみますと、残念ながら、七十歳を過ぎた今日でも、いくらおみ法を聴かせて頂いても、少しも変わったようには思えません。もっと悪くなっているようにすら思います。
親鸞聖人が、「凡夫とは、無明煩悩が満ち満ちて、臨終の時まで、欲や怒りやねたみの心はやまないのだよ」と、仰せられたことが思い合わされて、全くお恥ずかしい限りであります。
しかし、そういう浅ましい私が、現にこうして生きていることも事実です。それは私の力ではなく、全く生かされているというほかはありません。
私を産み育てて下さった両親はもとより、妻も子も孫もみんな私を生かして下さる大きな力であり、さらにあらゆる動物も植物さえも、私の生命を支えてくれています。
それらの大きなご恩を思うとき、私はただ頭を下げるほかはありません。そしてこの煩悩具足の私をめあてに、仏さまの大慈悲が働いていて下さることに気付かせられるとき、変わらないままの私が、お浄土への道を歩ませて頂ける喜びを感ぜずにはおれません。

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