法話589

努力は誠実さの表現

福井市太田町・平乗寺住職 神埜慧淳

弱さと誠実さ

力強いだけの人生は、まるであほみたいだし自分ほど幸福な人間はいないなんて、そんな人生は得手勝手過ぎる。涙もなければ、優しさもない。現実の生活には、弱さをこよなくいとおしみ、不幸の中に”なさけ”を感じてゆく、そういう”こまやかさ”もあっていいのではないでしょうか。
山本周五郎の小説に、幸福な主人公はあまり登場しない。だけど誠実であり、ひたむきな主人公たちには、ただ虐げられているだけではなく、独自の世界があるのであります。ほかに比べることの出来ない宝もののような現実であります。生きているなんて、そんな血の通わない話ではなく、「むかしも今も」の直吉がいるし、「日本婦道記」の女主人公たちもいるのであります。
力強く生きるとか、生かされているとか、そんな客観的なことではなくて、誠実にひたむきに、いたわり合って一日一日を過ごしているのであります。仕事が生活であり、生活が仕事なのでありまして、仕事の中に愛情があり苦悩があり、胸のうちに愛情を秘めながら手を休めない。ひたすら努力して迷い、迷いながらも誠実に生きる。
山本周五郎の主人公たちに、人生のドラマというよりも、誠実さだけを感じたのは誤りでありましょうか。何事につけ、努力するというのは誠実さの表現であります。仕事の手を休めないで、いろいろなことに巡り会うてゆく、どうかしなければと悩む。阿弥陀如来の光明の徳の一つに炎王光があります。お慈悲の激しさを思うのであります。

法話589挿絵

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