法話580

お育て頂き念仏の花

鯖江市本町三丁目・願生寺住職 長田智拙

昔の詩に「いつも三月花の頃」という一節があります。
もちろん彼岸を過ぎたうちらかな暖かい日差しのさすころのことで、年間を通じて最もよい季節であってほしいという願いを語ったものでありましょう。
春は桜の花をはじめ草や木の花が、一斉に咲き乱れます。
ある人の詩に「咲く花の泥にまみれた根の苦労」というのがあります。
冬の寒さの中でも泥にまみれながら、せっせせっせと夜も昼も休むことなしに、養分を吸いあげて送り届けたお陰で、花が咲くことが出来たのであります。
この目に見えない隠れた努力と苦労を思う時、花に寄せるおもいも深く味わえてきます。
蓮華の花に例えられます「南無阿弥陀仏」のお念仏も、口に出て下さるまでには言いあらわせぬ仏さまのお育てを受けているはずであります。
三毒の煩悩(いかり・はらだち・ねたみ・そねみ)の泥の中から泥に染まらない白蓮華(びゃくれんげ)の花が咲いて下さいます。
口についてお念仏の花が咲いて下さるためには、どれだけのお育てをいただいたことでありましょうか。
「高原の陸地には蓮華生ぜず、卑湿の淤泥(おでい)にいまし蓮華を生ず」と述べられてあります。
お念仏の花が三毒の煩悩の中から口に出てくださるまでには、寝てもさめてもへだてなくお育てのご苦労と大悲心の涙が注がれたお陰であります。
歎異抄に「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねにおもひだしまひらすべし、しかれば念仏もまふされさふらう。これ自然なり」と述べられておられます。
お念仏申す姿にお育ていただいた仏さまのご恩を喜ばずにはいられません。
南無阿弥陀仏。

法話580挿絵

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