法話576

念仏に限りない喜び

鯖江市本町三丁目・願生寺住職 長田智拙

命あること

法句経に「人と生まるること難し」の次に「命あること有難し」という尊い経文があります。
お釈迦さまがある日、弟子たちに次のような質問をされました。「人間の命はどれぐらいあると思うか」Aの弟子は「お釈迦さま、数日あると思います」とお答えしますと「お前はまだ佛法を知らない」と諭されました。Bの弟子は「私の命は飲食する間はあると思います」とお答えしますと「お前はまだ真実を知らない」と申され、Cの弟子は「私はひと呼吸の間であると思います」とお答えしますと「よろしい。お前は佛法の教えにかなっている」とお述べになったということです。
歎異抄に「ひとのいのちは、いづるいきいるほどまたずをはることなれば」とあり。
蓮如上人の白骨の御文(おふみ)に「ことにもってこの世界の習は、老少不定にして電光朝露のあだなる身なれば、今も無常の風来たらんこと」とあります。
いずれも私の姿を表現されたものであります。無常の風に吹かれっぱなしの姿は、風前のともしびのようなものであります。
この哀れで悲しい姿を見て見ぬふりをしておれないのが佛さま(親さま)であります。露のごと消ゆるわが身を大悲して賜わるいのち 南無阿弥陀佛
お経に「佛心は大慈悲これなり」とあります。
はかない夢はまぼろしのように消え失(う)せようとしている姿(命)を心傷めて大慈大悲しておられるのが「南無阿弥陀佛」であります。
念佛をとなえる衆生を迎えとって、捨てないお慈悲が「南無阿弥陀佛」であります。
蓮如上人は御文の中に、別に「信心とて六字の外にはあるべからざるものなり」と述べられ「名号の六字の意(こころ)をよくよく心得る者」とお述べになっております。
私たちは「南無阿弥陀佛」の六字によって、摂取不捨の救いと、滅びることない無量寿の佛の命を知らされて来るのであります。
限りある私の命が、滅びることのない無限の命「南無阿弥陀佛」にして下さる時、限りなき喜び,と感動をおぼえずにはおれません。佛によって生かされているわが命の尊さ、ありがたさがしみて感じられてきます。
今は亡き金子大栄師は、「けさも命ありて佛の前に跪(ひざまず)かせていただきました。合掌して礼拝して念佛すれば、気も澄み、心も開けゆくありがたさ、お陰で今日も素な心で、一日を送らせていただけることでしょう」と語っておられます。
師の詩に
み光を仰ぎつ み名にしたしみつ めぐみをうけて 今日も生きゆく
「命あること有難し」と心から喜ばずにはおられない今日このごろであります。

法話576挿絵

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