法話572

死ぬ時はただ一人で

東京・本願寺派布教使 上西孝岳

おじいちゃん いつまで生きるの②

私どもは一度は死ぬるということを知っていてもいつまでも自分だけが生きられるように思っているのではないでしょうか。大谷派のご講師香樹院さまのお言葉に「世の中の多くの人は死なぬつもりで死んでゆく」とおっしやっておられます。本当にそれが真実ですね。私たちの心はいつまでも人が死んでも私は死なぬとささやいているのです。
蓮如上人の御文章に「明日も知れぬ命にてこそ候に何事を申すも命終わり候はば、いたづらごとにてあるべく候命のうちに不審もとくとく晴れられ候はではさだめて後悔の身にて候はんずるぞ御心得あるべく候」と仰せになっておられます。
先日私は二十歳になったばかりの娘の臨終に立ち会いました。青春をおう歌していたただ中で、音もなく忍び込んでいた病魔は、ついに若い生命を断ち切って行ったのです。その臨終(いまわ)の際の娘の言葉は「お母ちゃん」後は苦しくて声にならないのか、それとも胸が詰まって言う言葉が出ないのか。恐らくはその娘の言葉は「母ちゃんもう一度元気にさせて」と言う言葉だったのでしょう。
哀願するようにそっとやせ衰えた手をさしのべて母の手を握りしめた。ややしばらくたってまた蚊のなくような声で、さもあきらめたのか、寂しげに「お父ちゃんもお母ちゃんも姉ちゃんもいるけれど、だれもついて来てくれないのやなあ」。自分の死を予期したのかこうささやいた。
自分に言って聞かせるように、蓮如上人の御文章に「誠に死せん時はかねて頼みおきつる妻子も財宝も我が身には何ひとつとして相そうことあるべからず、されば死出の山路の末、三途の大河をばただ一人こそ行きなんづれ」と。

法話572挿絵

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