法話513

広がる宗教的世界(自分の姿に気付いたとき)

福井市上莇生田町・安楽寺住職 佐々木俊雄

悲しみも-よろこび③

夜やすもうとして電灯を消すと、急に窓からさし込む月の光の明るさに驚かされることがあります。そしてしばらく目をあけていると、その淡いけれども、確かな光が自分の寝姿を照らしているのを覚えます。
仏との出会いは、自己を徹底的にみきわめ、赤裸々な自分の姿に気付いたところにあるもので、そこから宗教的な世界がひろがるものであります。(親鸞聖人は、その出会いのすべてを仏のはからいとされますけれども)。
親鸞聖人の書物を拝見いたしますと、いたるところに「慶(よろこ)ばしいかな」というよろこびとともに「悲しいかな」「恥ずべし」という反省のおことばが併せてうかがわれます。
「昿却多生のあひだにも、出離の強縁しらざりき」と、仏になる道をしっかりと歩む聖人にとって、如来の恩徳はもちろんありがたく、大きなよろこびでありますが、その仏にねがわれている私をみるとき「修善も雑毒なるゆえに」と自分のすべてが自己中心で、自利をめざす仏とは真反対のものであるとの反省が、自分を責めるのであります。宗教的よろこびにひたるもののみが味わうこころもちであり、宗教者のみにひらける世界なのであります。
歎異抄に「よくよく案じみれば、天に踊り地に踊(おど)るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思ひたまふべきなり」とあり、そのような悲しむべき私であるが故に、なおなお仏の心がありがたく、かたじけなく仰がれるのであります。

法話513挿絵

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