法話490

”今”をどう生きるか

福井市太田町・平乗寺住職 神埜慧淳

人生の後始末するのは自分

「どうやって生きても、自分、それで、どうなろうと、やはり自分、このたった一人の、自分、この今、この今を、どう生きるか、おのれの勝手だが、みなおのれが、あとしまつする、しかない」佐藤勝彦の詩の一部であります。しみじみ味わっておりまして、あとしまつはいかになすべきか、などと考えているのであります。
若いころに読んだフローべールの感情教育というのがありまして、それは一人の青年が、人生の途上に感じてゆく心の道程をモチーフにした小説であります。
その青年主人公もいつしか年を経まして、ある日、初恋の人に出合うという場面があります。「彼女はくしをぬいた。白い髪がさっと流れ落ちる」感情教育の一節でありますが、今もって忘れることの出来ない強い印象でありました。その時の感動があまりにも強いので、常に白い髪を予測しながら、今日まで生きてきたのではないかと考えております。
だから、いつの日にか、人生のあと始末をしなければならない、そういう時が、かならずやってくると思っていたのであります。思いますに、青年のころから考えていたことなのに、今もって、自分のあとしまつをどうやってやればよいのか、わからないのが、私のただ今の現実であります。
悲しみも、苦しみも、愛することも、憎むことも、人さまざまでありますが、どこかで納めてゆかねばならない。だけど、自分で、自分の業をどうすればよいのかわからないのであります。生死の苦海ほとりなし、でありまして、自分で解決出来る”私”ではなかったのであります。
年の暮れにあたり、ひさしくしずめる”私”であったと知らされているのであります。

法話490挿絵

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