法話448

苦悩逃れ安住の時(円満な人生に最も大切)

鯖江市中戸口町・明厳寺住職 光山善龍

我が分限を知る

先回、六つの窓と猿のお話を申しましたが、これは仏教で申しますすなわち六識のことであります。眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの窓があることによっておのれという猿がもがき苦しむ、我が分限をわきまえば、それ程もがき苦しむことはなくて生きて行ける。世の中に飢えて死んで行く人は誠に少ないが、美味にあいて病をおこす者はたくさんあります。これがすなわち分限を忘れた姿であります。
人間分限を知るということは最も大切なことであります。衣食住生活、金のために使われる金がほしい。好きなものも食べたい。立派なものを身につけぜいたくな生活、衣食のために追い回されることは分限以外に手を出している姿と申さねばなりませぬ。実業家でありながら、金を粗末にしたり、学者でありながら利益問題に走り過ぎることは、いずれも我が分限を忘れていると申さねばなりませぬ。
分限を忘れては円満な人生を渡ることは出来ません。私どもの分限は徳もなければまた知恵もない。往生の一大事に向かっては全くの無力者にして、ただ日々六窓の前に置かれたるえじきに引かれてもがいておるものであります。とてもこれを顧みずしておのれが分限内に安んじておることが出来ないものであります。
しかれども一度如来の慈光のうちにおさめ入れられますと、この苦悩の中にありながらも、幾分の安住を求め得ることが出来るのであります。おのれの分限を知って、これに安んずると申すことは最も肝要なることであります。

法話448挿絵

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