法話444

無条件、無限の慈悲(阿弥陀如来の救済は絶対)

鯖江市中戸口町・明厳寺住職 光山善龍

救いとは?

救いにも人間相互の救いは範囲が非常にせまいもので、私どもが社会のためとか、あるいは人類のためとか申しましても、いつもこれを実行する上に近親の者ならば助けもするが、縁も手掛かりもない者には、慈悲の手がのびかねる。近き所にいる人知った人には力をつくせるが、遠方の見知らぬ人には耳に留めもしない。いわんや人類相互の救済は、条件がともなうきらいがある。すなわち救わるる者からは、嘆願をせねばなりません。従って面倒ということと、必ず救ってくれるかどうか安心は出来ない。しかるに阿弥陀如来の救済は絶対の慈悲といわれます。
私たちが迷うのも因果の道理によって迷っている。悟りを開かしめるのも仏様が私たちの迷いを救うて下さるのも因果の道理。この絶対の救いとは私が眠っていても助かるということではない。絶対とか他力ということを間違って考えている人がある。
その悟りの因果だけを、私たちに与えて下さることを絶対の慈悲と申します。阿弥陀如来の救済は絶対の慈悲でありますから私たちの長所を拾い上げて、また私どもの短所をお見ぬきあそばされて決してこれを捨てることなく、末遂げて救済せられ私どもに対し毛頭要求せられることなくして、無条件の救済であります。
無条件なる故、慈悲の及ぶ範囲もまた無限にして十方衆生、どんな人も救わんとの誓願をお立てなされたのが阿弥陀如来。かくのごとく大慈悲を備えた阿弥陀如来はいかなる方法をもって救済せられるかと申しますと、”念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰せをかうむって信ずる外に仔細(しさい)なきなり”と説明せられてあります。
如来の御名を唱えるという一事であります。唱えてからのお助けでなくお助けいただいた大慈悲に対しての称名念仏が浄土真宗であります。

法話444挿絵

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