法話347

悩みつつ悩み超え(死後のことではなくいま)

敦賀市元町・浄蓮寺住職 龍渓玄真

安住の生活

「まことの信心をいただいた人は、摂(おさ)め取って捨てぬという阿弥陀如来の本願の誓いにすくわれるのであるから、正定聚(しょうじょうじゅ)という位に安住するのである。ゆえに、臨終にはじめて往生がさだまるのではなく、また仏の来迎(らいごう)をまってすくわれるのでもない。信心がさだまるとき、往生もまたさだまるのである」これは親鸞聖人のお手紙の一節です。
近ごろの知識人を自認する人や、若い人々の間には、仏教に対する偏見が多いようです。仏教は老人のもの、また、死んでからさきのこと、科学文明の時代にはふさわしくないもの、あるいは葬式の役目をするくらいのものと思っているようです。そのくせ、いろいろな迷信的な占いやまじないに凝っている人もたくさんいます。
親鸞聖人はそういうまちがいをするどくついて、本当の教えのあり方をお示し下さったのです。
この世は、さまざまな、憂い、悲しみ、苦しみ、悩みを避けることのできないようにできている所です。いやでもそれらを味わわなければならないのが私たちの人生です。避けることも、取り除くこともできないのなら、どうしたらよいでしょう。ただ一つ、これを超えて生きる道-として与えられたのが、お念仏のみ教えです。
さわりある人生を、如来の力をいただいて、さわりあるままに生き抜くことのうれしさよ、と親鸞聖人は、仏教は人ごとでもなく、死後のことでもなく、ただ今の、この私にいただくもの、ということを教えて下さいました。
「悩みつつ悩みを越えてほがらかに、生きる道が念仏の道」ある老人のよろこびの声です。

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