法話341

生かされている自分(「縁起」は生き方の教え)

敦賀市元町・浄蓮寺住職 龍渓玄真

縁起ということ

昨年の春、敦賀市の日本原子力発電所の事故について、大きなニュースとしてテレビなどに取り上げられたことはご存じでしょう。
そのために、漁をする人や魚屋さんはもとより釣り具、釣りエは売れなくなりました。それについて五月の連休を前にして民宿旅館では予約の取り消しで客が来なくなり、酒屋さん、八百屋さん、菓子屋さんなどは品物が納められず、北海道からくる昆布や外国産の材料を使っているカマボコなどまで、敦賀で加工製造するからというので、売れ行きが振るわず、敦賀の人たちは大変迷惑をいたしました。
これについて思うことは、仏教で説かれる「縁起」の教えの尊さです。
ものは皆関係しあって存在し、人も自分だけで生きているのではなく、多くの人やさまざまな力によって生かされているのですが、そういうことをすっかり忘れてしまっている私に、もう一度よく考えてみなさいと、催促してくれたのが、今度の出来事だったと受けとらせてもらいました。
家庭内でも、外でも、どれだけ私の言葉づかいや行動が、相手の人に迷惑をかけ、不快な思いをしむけていたのではなかったかと思うと、ゾッといたします。縁起の教えは、単に理論的に物事の成り立ちについて教えるのではなく、私の生き方についての大切な、尊い教えであったのです。

法話341挿絵

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