法話327

バック・ミラー

大野市伏石・常興寺住職 巌教也

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出合いました。それは
「自動車は、前に進むためにあるものである。しかしよく見ると、後ろを見る目をもっている。宗教心のない人は、バック・ミラーのない自動車と同じである」と。
この言葉を読んだ私は「ものの見方」とともに「ものの考え方」についても、もう一度、自覚と反省をしなければならないように思いました。なぜならこの私自身が、あの自動車のように、はたして心のバック・ミラーをもっているかどうかと、確認しなければならなかったからであります。
たとえば仏さまの目は「閉目開目」とか、あるいは「半眼」という言葉で、お経の中に出てまいりますが、その仏さまの目が半分は閉ざされ、半分は開かれているというその意味は、外のものを見る目と、心の内側を見る目との、バランスをいつも保っていらっしゃることを、身をもって私たち人間に、教えていて下さるからでありました。
「人間は目を二つもつが、舌は一つである。ということは、しゃべるより二倍も、視察するためである」といったのは、イギリスの作家コルトンでありました。

法話327挿絵

お金について

大野市伏石・常興寺住職 巌教也

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出合いました。それは…
「金々とさわぐうちにも年が寄り、その身が墓に入相(いりあい)の鐘」

教会の鐘の音は、カラン、カランと明るくリズミカルです。お寺の鐘はゴオン、ゴオンとずっしりと心の底に響きます。どちらも聞く人の心に応ずるかのように鳴り渡ります。
一方、古川柳の方では「借りても金は面白いやつ」「遣(つつ)うても溜(たま)っても金は面白い」と生きた経済学を教えてくれ、さらには古歌の「貧乏はすれどこの家に風情あり、質の流れに借金の山」と、かえってひと味ちがった、心のゆとりさえ感じるのも、質の良いユーモアと思います。
だからこそ、どんな和歌であっても、下の句に「それにつけても金のほしさよ」と付ければ、一首の歌になるということは、日本語の面白さであり、意味も複雑にさえなります。
それこそ「札にやきらわれ金貨にやあかれ、銅貨どうかで日をくらす」に思いを致し、先の掲示板の言葉に帰ってみると、私たちの人生そのものの「生きる意味」を、どう受けとめるべきかという、私たち人間に対する大事な問いが、さりげなく語られているように思われてなりません。

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