法話312

ひたすら多聞第一(身削られても教えに耳)

大野市御給・専福寺住職 関哲樹

聞法者の自覚

「聞いてみなんせまことの道を無理なおしえじゃないわいな」とお軽同行がうたっていますが、聞法(もんぽう)ということが大切であります。
阿難尊者(あなんそんじゃ)といわれるお方はお釈迦さまのいとこにあたられ、幼少のころからお釈迦さまのお弟子となられました。お経の中に「仏告(ぶつごう)阿難」(仏さまが阿難につげられますには…)とよく書かれています。阿難は多聞第一であったと伝えられています。たくさんのお弟子の中で、人にすぐれて一生けんめい熱心にみ教えを聞かれました。
こんな話があります。あるとき阿難が竹林精舎で、背中にひどいはれものができて困っていたことがありました。釈尊は耆日婆(ぎば)という立派なお医者さんに治すように命じられました。耆婆は阿難がお話を聞くときはとても熱心であることを知っていたので、釈尊のお話のとき、一心不乱に聞いている阿難のうしろにまわり、はれものを切ってうみを出し、薬をぬりましたが、阿難はすこしも気がつかなかったと伝えられます。

法話312挿絵

阿難は「お釈迦さま、私はみ教えを聞かせていただくときには、たとえ身をけずられても決して悔いはいたしません」と申したそうです。親鸞聖人も聞くことの難しさ、また本当に大切であることを教えて下さっております。私たちはまことの聞法者の自覚にたちかえらなければなりません。

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