法話305

正しいものの見方(三)

美山瀬ケ口・正玄寺住職 岩見紀明

ひきつづきまして「正見」について考えてみましょう。きのうは煩悩に汚された自己を正さないかぎり正しい認識はできないということでお話をさせていただきました。「正見」がないかぎり「さとり」はないのです。したがって、われら凡夫には「さとり」の道は閉ざされたわけです。親鸞聖人は仏道から締めだされた私たちに「常懺悔(じょうざんげ)」の念仏の道をお示しくだされたのです。その道が「念仏者無碍(むげ)の一道」と述べられた道なのです。「無碍」とは「邪魔(じゃま)者」だとか「さまたげ」になるようなものがないという意味であります。つまり邪魔者を邪魔とせず、さまたげをさまたげとしない心、また障害にあってその能力を倍加してそれを克服する強さがあるということを示された言葉であります。
したがって念仏者としての道は、感情の火災にまごつき、憎しみや恨みでカッとなる、わたしたちの心の中でナムアミダブツという声となってささやいてくださるのです。そのささやきの声にふれるとき、わたしの内にひそむ力となって私を生かし、励まし、慰め、そして繊悔する心へと変えさせてくださるのです。つまり自己を正す力としての念仏なのです。

法話305挿絵

わたしは、いつも念仏させていただく安らぎのなかで、自己をふりかえらせていただくとき、なんと、つまらぬことに腹をたてていたことか、本当に恥ずかしくなってくるのです。このような煩悩からの解放をおあたえくださるはたらきがナムアミダブツなのであります。なぜなら、ナムアミダブツは、正しくものを見る知恵の目と、障害を克服する力を私たちにお約束くださる声なき声であります。

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