法話304

正しいものの見方(二)

美山瀬ケ口・正玄寺住職 岩見紀明

いま「正見」と仏教でいう場合には、見ているはたらきをしている自分が、見られてあるものを見て、見られてあるままに間違わずにものを見るということをいいあらわしています。これは自分の主観や知力をはたらかして見る認識ではなく、見られてあるもののほうから、はたらいたことでえた認識といってさしつかえないでしょう。
そこで私たちは、見られてあるもの、そのままのすがたにおいて間違わずに見るということのためには、まず、見ているはたらきをしている自分自身が正しいかどうかということの反省が必要でしょう。なぜなら、見ている自己が、独断や偏見をもっていたとすれば、見られてある客観も正しくは見られないからです。
このような意味から見ているはたらきをしている。それ自体の客観化、つまり自分が自分を離れて外から自分をながめて見る必要があります。このような自己の客観化は、他人をみてその非がわかるのとよく似ています。
しかし、どのように繊悔(ざんげ)し、追悔(ついげ)の涙を流して自己を正しくみても、それはつかの間のことです。一瞬の清浄心も、すぐ邪けんの汚濁に染まり、いかり狂う心へと変化する私たちの心には、変わらぬ正しさをもちつづけることは、とても困難なことであります。

法話304挿絵

正見とは仏道の第一歩です。煩悩に汚された私たちにしてみれば仏道は閉ざされたものとなります。そこで親鸞聖人は「念念称名常懺悔(ねんねんしょうみょうじょうざんげ)」と説かれて一声一声のお念仏のなかに自己を正す道のあることをお説きになっておられるわけであります。

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