法話303

正しいものの見方(一)

美山瀬ケ口・正玄寺住職 岩見紀明

人間の文化がはじまって以来、人間はいつも、ひとりよがりな独断や偏見のため多くの悲劇を体験してきました。
わたしたちは、人を見る場合でも、その外観だけで判断して失敗したり、また的確な判断と状況処置を誤ってとんでもない結果を招く場合が往々にしてあるものです。
以前、わたくしはあるところで夕食をいただいており、そこの奥さんがウイスキーの角ビンを持参しました。瞬間わたくしはウイスキーを想像したのですが、よく冷えていますよ。といわれながら、なみなみとそそいでくださるようすから判断して、その中身の正体が「お茶」であることがわかりました。事実、飲むという経験を通してはじめてお茶であることが確証することができました。
このように人間は「思いちがい」をするものです。この「思いちがい」が、しばしば人間に悲劇をあたえてきたものなのです。
ところで、このウイスキーの角ビンの正体を、ウイスキーと考えようと、お茶と思おうとそれは勝手なのですが、お茶であるという事実はどうすることもできません。いわゆる「勘ちがい」はあるとしても「ありちがい」ということは絶対にないものです。この事実を事実のままに知る心が仏教で「如実正観」とか「正見」と呼ばれているものです。

法話303挿絵

わたしたちは四六時中、ものを見、ものを考え判断して生活しているわけですが、なかなか正しい判断や認識はできません。それは、わたしの主観にとらわれた目でものを見るからでしょう。念仏は主観をはなれた仏の眼でものを見る見方を養ってくださるものです。

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