法話301

人間とは弱い存在(自然に念仏に眼閉じよう)

美山瀬ケ口・正玄寺住職 岩見紀明

人の死(一)

日々の生活のなかで、自分は、まだまだ元気なのだと思っていても、孫でも出来て家族のものから「おじいちゃん」と呼ばれだされたりすると、おれはまだ若いんだ!とひらきなおりもしたくなるものですとよく聞きます。
しかし、いったん病気でもしようものなら大変です。いっぺんにふさぎこんで、もうこのまま駄目になってしまうのではないかと思うものです。「大丈夫ですよ」と言われても、病気にたいする「疑い」ははれず不安になってくるものです。いよいよ精密検査の結果でもでて「たいしたことがない」とわかりますと、うれしくなって周りの者にいっぱいやるか、なんて言いたくもなります。しかし、一度傷ついた心はいやされず年齢を意識するものです。このように傷つきやすく不安で弱い存在が人間というものです。
世の中には悟りすまして、すべての不安を解決したかのごとくふるまう方もおられます。「喝(かつ)」と一声叫んで死んだ、たいしたものだ、さすが大徳だと言うような話を聞きますが、当の本人はいっしょうけんめいに不安と戦って努力しておられるのでしょう。そこが尊いのです。

法話301挿絵

本多顕彰は「一瞬の激情に身をまかせるとき、死はこわくないかもしれない」と語っておりますが、先の大徳の大喝一声とは、こういう心境でしょう。「口伝鈔」のなかで「凡夫として毎事勇猛のふるまい、みな虚偽だること」と述べられております。死の不安を勇猛のふるまいで見せるのはうそだとおっしゃっておるのです。「力なくおわるときかの土にまいるべきなり」です。安らかに力なく如来よりたまわりたる念仏に眼を閉じる自然がほしいです。

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