法話289

苦悩の中に力あり

小浜市遠敷・西光寺前住職 吉田俊逸

人生は苦の世界であり、悩みの世であります。それが他人によって苦しめられ悩まされていると考えやすいのです。しかしそのことが他人によってではなく、自分の問題として気がついた時に宗教が必要となって米ます。苦も悩みも自覚せず、人生の苦悩を解決しようと思わない、すなわち問いを持たない宗教的生活は形式であり表面的なものです。どこまでも自分の問題として取りくむときに本当の信仰生活があると思います。
仏教の話となると、すぐ仏に聞け、本願に聞けといわれます。その時、仏の願いを遠い古い昔の問題として考えていないだろうか。絶対者として私には、程遠い誓願であって、その誓願によって、罪悪深重の凡夫が未来にのみ救われ、仏の力によって安心して死ねるように思っていては、人間としてあらゆる社会の諸問題とともに生きることが半滅してしまいます。
宗教生活は真の人間として、仏の力によって信心(まことの心)をめぐまれ、念仏を申す人生を歩むのです。この聞くことによって弥陀の本願力が自分の生命力となり、自分を人間として力強く生きぬくための本願であらねばなりません。

法話289挿絵

その生きぬくために、あらゆる問題が起こって来るのです。自分の罪悪、あさましい心、恥ずかしい心、に対する問いが出てくるのです。そこに聴聞によって仏を慕う心が育てられ、仏を念願するのです。この念願の中にこのような私が常に仏とともに生かされていることを知るのです。これがよろこびの生活です。信心の生活とは「至心信楽、己れを忘れ、無願不成の願海に帰(かえ)す」と先徳も味おうていられます。

法話288 トップ 法話290