法話258

仏光寺派仏光寺と興正派興正寺(2)

坂井町下兵庫・「高校演劇」同人・劇作家 森瀬高明

「三門徒衆」証誠寺伝によりますと、親鸞越後国流罪の途中立ち寄った越前国丹生郡山元の地に一宇を建立し、親鸞の長男、慈信房善鸞をこの寺に迎えて念仏を広めさせ、その跡継ぎには善鸞の孫、浄如があてられ、嘉元二年(一三〇四年)八月には、後二条天皇から「山元山護念院証誠寺」の勅号をもらっています。
坊舎を今立郡横越村の現在地に移したのは至徳二年(一三八五年)、第八世道性だとされています。しかし道性は、大町専修寺の如道の孫とする説もあり、それに従いますと証誠寺は大町専修寺から分離独立したことにもなります。道性以後数代にわたって毫摂寺に帰属した時期があります。明治になって山元派本山証誠寺となりました。
越前四箇本山の最後に鯖江本山についてのべます。誠照寺伝によりますと、前記、親鸞五男道性の子、如覚が、古い親鸞ゆかりの「車の道場」に一宇を建立し、その跡継ぎに本願寺存覚の子、如存を迎えたとされています。
しかし、別説には、道性は証誠寺の道性と同一人物であり、誠照寺は、皿脈的には証誠寺の統をつぐものとの見方もなり立ちます。如覚は後二条天皇から「真照寺」の寺号をもらい、第七世秀応の時、後花園天皇から「誠照寺」と改名することを命ぜられました。

法話258挿絵

武士との結びつきの強いこの寺は、江戸時代に入ると大いに栄え、第十五世秀誠は天和三年(一六八三年)に誠照寺の寺法を定め、本山としての骨格をつくりあげました。維新時には天台宗に属しましたが、明治十一年に誠照寺派本山誠照寺となりました。

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