法話247

避けられない「死」(荷物を背負って生きる)

永平寺町谷口・仏願寺住職 藤井尊乗

さようならの日々

ある筋委縮症の重症な患者さんを収容する施設(病院?)における人々の生活を映した記録映画でした。
現代医学では不治だといわれ、長くて一年短い者では二、三ヵ月の命を自覚した人たちが、この短い命の日々をいとおしみながら不自由な手足で絵を描き、字を習い、手細工物の製作にあるいは目の不自由な人たちのための点字本の製作などに精魂を打ち込んでいる姿は強く私の胸を打ちました。
そこで私は思いました。この人たちだけが、さようならの”日々”なのだろうか。人は皆はっきりとした意識を持たないまま”さようならの日々”を過ごしているのではないだろうか。つとめて死から目をそらし忘れようとしています。しかしこれを避けることは出来ません。離すことの出来ない荷物を背負っているのであります。私たちはこの荷物を背負ってこれからの人生をどう生きることが真実の生き方なんだろうか。これを考えさせるよい映画でありました。

法話247挿絵

しかし、ここには未来がえがかれていませんでした。こんな人たちに明るい確かな未来を与えてあげる宗教がほしい。そうしたらこの人たちの人生はさらに充実したものになるであろうにと、やるせない気持ちがいたしました。
親鸞聖人のみ教えはかぎりなき命をたまわり、如来の大悲に抱かれて生きる途(みち)で、人生の究極のよりどころとなるものであります。

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