法話246

それ自体に意義が(自分の姿知らされる場)

永平寺町谷口・仏願寺住職 藤井尊乗

法を聞くこころ

「もうしばらくの辛抱だ。大学に入ってしまえばあとはのんきに遊べる」苦しい受験勉強の中で私はこうつぶやきながら自分に言い聞かせていました。そのころ、私にとって勉強とは大学受験のための手段でしかありませんでした。今苦しんでやっている数学や語学が私の実生活と何のかかわりがあるのか、私は学問そのものの意義を見失っていたのでした(要旨)。ある日の新聞にこんな感想がよせられていました。
法を聞くということについても同様な誤りを犯している人がおられるようです。お浄土に生まれる手段としての信心。信心をうる手段としての聞法(もんぽう)これは大事なことを見落としているのであります。
法を聞くということは何かの手段としてではなく、法を聞くこと自体に意義があるのです。私たちは自己中心の迷いに明け暮れ、しかもそのことにさえも気がつかずに過ごしております。私自身の真の姿を知らされる場は聞法より外にありません。

法話246挿絵

また、私たちはみ仏の深い願いに包まれ、人か物のおかげによって生かされているのでありますが、これも煩悩に濁った目には映りません。聞法を重ねることにより自己と人生のほんとうのすがたを見る眼が開けるのであります。そして私自身が作りかえられるのであります。
「聞法は死の準備ではなく生の糧である」(真宗連合カレンダー)

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