法話215

立つ鳥への思慕

福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾

この間カレンダーをめくっておりましたところが、その標語に、「世間、愛欲の中に、自己の生死を間う」と見えておりました。
この中の愛欲という言葉にひっかかったのでありますが、まず分けてみますと、愛と欲であります。すなわち、愛情と欲望であります。または、愛のはてしない欲望かも知れません。まあ、いずれにいたしましても、人間の本能のもつところの欲望に違いないのであります。
ここでちょっと考えてみましょう。愛鳥家、小鳥をかわいがる人々ですが、この人たちは、小鳥をかごの中に入れまして、エをやってながめ楽しんでいるのであります。ですが、はたして小鳥は喜んでいるのでありましょうか。森の中の鳥の子供たちの所へ、あるいは山里の親どりのもとへかえりたいと思っていないんでしょうか。どうでしょうか。
もし、この人が小鳥をかごから放ってやりまして、飛び去って行く鳥の姿を見て、喜びを感じるといたしましたならば、その喜びこそ、慈悲の心に違いないのであります。そのような心が仏の心でありましょう。

法話215挿絵

「観無量寿経」というお経の中に「仏心とは大慈悲これなり」という言葉がありますが、つくづくと味わわれることであります。
私たちは愛欲の中にありまして、自分というものの人生、あるいは生死というものを問わなければならないでありましょう。生死、解脱という、このむつかしい道は「如来の法を尋ねて、すなおに聞く」以外に方法はないようであります。

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