法話214

まともなこと、身勝手なこと

福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾

ことわざに「親の心子知らず」というのがございます。確かに、子供と呼ばれる多くの人たちは、親心ということなど、あらためて知るということはないように見受けられます。そして子供というものは、われ身勝手に振る舞いまして、自分はいつも、まともなつもりで生きています。
しかし、自分が親になりまして、親の立場から見ますというと、子供の動き、どれ一つをとっても危なげなものであります。心もとないものでもあります。
ですから、子供の思いが例えどうであろうとも、うるさがられようが、きらわれようが、親として、ひたすらに子供を考えているのであります。なんとか一人前にするまではと願いをかけ、心を砕かずには、いられないのであります。
そうした親心が、何かのきっかけで子供に伝わりますというと、親心のかたじけなさということがわかり、ふっと涙ぐむという姿が見られるのではないでしょうか。
そして、まともでもないくせに、今まで思い上がった生き方をしていたということがわかり、自分を恥じずにはいられなくなるでありましょう。そのうえ、親の偉大さに触れて、初めて自分のいたらなさということが知らされてくるわけであります。

法話214挿絵

如来さまのねがいに耳をかたむけるということは、取りつくしまもない子供の立場でありながら、初めて「如来のねがい、本願」を聞かされ、気づかされるということでしょう。親の立場がわかり、親のねがいが自分に至りとどいたと感ずる時であります。そうなれば、思い上がった自分というものが、恥じずにはいられなくなるという姿なのであります。それが念仏を口に出来る時なのであります。

法話213 トップ 法話215