法話205

無眼人・無耳人(二)

坂井町蔵垣内・勝林寺住職・吉崎別院副輪番 佐々木教應

引き続いて無眼人無耳人についてお話をすすめます。人生は生きるうえで、毎日外部からいろいろな物に触れ影響を受けて生きていますが、その窓口に当たるものが眼であり耳であると申してもよかろうかと思います。
ところで私たちの眼は良からん物を見ることに興味をもち、他人の悪事に耳が傾きやすいということです。善と悪をならぺてどちらを選ぶかといえば、だれしも善を取るでしょう。それでいて悪事に眼や耳が奪われやすいところに人間の心の醜さが思い知らされます。
また眼については、昔から「眼は口ほど物を言う」とか「眼は心の窓」であるといわれてきました。姿、形もない人間の心が眼の上にあらわれる。私の心のままが怒りの眼になったり、恐ろしい眼になったり、するどい眼になったりする自己の現実を悲しまずにはおれません。特にこわいことは、この眼が自分を見ることを忘れた時です。他人の事ばかりを見ている時です。
灯台もとくらしとは、実は私の眼のことでした。「家の嫁は邪見きょう慢だ」と言っているしゅうとめが、実はしゅうとめ自身も邪見きょう慢におちいっているのです。自分を見ることを忘れた眼が、互いに傷つき合う邪見きょう慢の人間をつくり上げていくのです。こうした私たちに対してお釈迦様は「汝自当知」と呼ばれ「そなたよまず自分を知ることが大切だよ」と教えて下さいました。

法話205挿絵

科学の知識だけではほんとうの自分の姿を知ることは出来ません。知識は外側を見る眼であって、内なる自分を見る眼でありません。宗教の離れた科学は、一歩誤れば自分を見る眼を持たない無眼人になりはしないか。

法話204 トップ 法話206