法話204

無眼人・無耳人(一)

坂井町蔵垣内・勝林寺住職・吉崎別院副輪番 佐々木教應

ただ今から親鸞聖人のお書きになったご和讃の中で、無眼人・無耳人といわれたお言葉についてお話し申し上げたいと思います。これはもともと日蓮所問経の中に説かれてある言葉ですが、文字の通り眼(め)のない人、耳を持たない人ということです。人と生まれて(眼(め)のない人、耳を持たない人は一人もないはずです。それになぜこのようなことが説かれているのでしょうか。
ご和讃には「浄土ヲ疑ガウ衆生ヲバ」とありますから仏の存在を疑う者、浄土の世界を否定する者、こうした人は眼のない人は眼のない人、耳を持たない人と同じだとのおぼしめでしょう。眼があいていても仏を拝むことを忘れている人、耳を持っていても仏の教えを聞こうともしない人、このような人が案外多いのではないかと思います。
家庭の中にお仏壇が安置されてありながら、み仏を拝むことを忘れてテレビの前に集まる家族。お寺に法座が開かれてもお参りしてみのりを聞くことを忘れている今の世の中、まさに無眼人、無耳人だとおしかりをうけても文句のいいようがありますまい。

法話204挿絵

人間が人間として生きる以上、仏を拝むことも忘れ、仏法を聞く耳さえ持たなかったらそれはもう人間以下ではありますまいか。人問以外の動物にも眼や耳を立派にそなえていますが、悲しいかな彼らには仏を拝むことも、またみのりを聞く世界も持ち合わせません。ただ本能のまま生きているに過ぎないのです。
だれしも動物ではなく人間として生きていきたいと願っているはずです。私たちの眼はもっと尊いものに触れなくてはいけない。もっと真実の言葉に耳を傾けなくてはいけない。

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