法話182

救い、与えられるもの

京都本願寺布教使 西田昭教

他力の念仏

「億劫(オッコウ)ニ相別レテ須由(シュウユ)モ離レズ、尽日モ相対シテ刹那(セツナ)モ対セズ」
これはある名師の言葉です。難しい事ですが、長い間別れておっても、ひとときも離れておらない、一日中出会っておっても、ひとときも本当に心の通い合ったことはない、という意味だと思います。私たちの日常生活に思い当たる事はありませんか。
いま特に、宗教に限定して考えますと、多くの宗教の教えは、私と神との相対で成立しています。救いを求めることによって救われることが可能だと考えるのです。この場合は救いの主の神仏と私の両方が働きかけることですから、私の働きかけを否定すると、救いは成立しないことになります。

法話182挿絵

このような私たち人間の側からの働きかけを認める救いは、人間の希望に合した救いですから、人間の我執の心を認めていることになりますから、本当の救いとは言えません。いま浄土真宗のみ教えで申します他力の信心とか、他力の念仏ということは、私たちの求めていることは人間の思いだから真実のものとは言えません。真実に求めねばならないものは、真実の世界からより出てくるものです。
あなた方が真実に求めるものは、求めるより先に与えますと、届いているものを言うのです。対応的立場に立つと、自らの動作や働きを認めざるを得ませんから自力と言えます。念仏をとなえることも、救いを期待していますから、今の救いになっていません。他力の念仏とは求める私に先立って、救いの法が与えられるものが私を通して出て下さっているのだと頂くのが他力の念仏というのです。

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