法話167

友引

大野市元町・円和寺住職 日種真隆

この間、知人の葬式の手伝いに行ったが、葬式の日を決める日に当たって、予定した日が「友引」であったことから、大揉(も)めに揉めた。「迷心だから何ともない」という人。「いやそんなことを言っても、もし死んだらどうする」という人。「人がするなということは、しないほうがいいのではないか」という人。そんなこんなで大変だったが、浄土真宗ではどう言っているのかという相談を受けた。
世の中に害を及ぼす迷心は数多くあるが、この「友引」の迷心は、その最たるものであると言えよう。
その根強さの原因は、一つは、人間がもっとも嫌う死に関しているという点。もう一つは、葬式というものが、一人でやるのではなく、多くの人の手によってなされるという点、にあると思われる。
したがって、葬式になってしまってからいろいろ騒いでもどうしようもなく、それだけにふだんから、みんなが仏法をきちんと聞いていてくださったならば、と思わずにはいられない。
友引にこだわっている人たちに「では、あなたは何をよりどころにして、そういうのか」と聞いたとして、きっと、だれも答え得る人がないのではなかろうか。「みんながそういうから」というようなことになってしまうことが多い。
私はそういう人たちに出会うと、大昔の未開人と話しているような気がしてくる。そしてこの人たちが、ふだんからよく仏法を聞いていたら、身内や知人どうしで争ったり、気まずい思いをせずにすんだのにと、思うのである。

死者の休日

大野市元町・円和寺住職 日種真隆

法話167挿絵

友引の問題を考える前に、まずこの迷信に巻き込まれた二人の方の投書を紹介したい。現代のこの文明の世に生きている人間として、行間にあふれている、いたたまれない気持ちをくみ取ってほしいのである。
「不便な友引の俗習改めたい」高知市青木修子(主婦六十歳)
私の住む地方では「友引」の日は絶対に葬式を出さない不文律がある。五月三十日に里の兄嫁が亡くなった。葬儀が翌日では準備が間に合わず、六月一日は「友引」とあって二日になった。地元に火葬場がないので六十キロ離れた高知市まで行かなければならず、正午に出発したが、それまでに三回詰め替えたドライアイスが二万一千円。遺体は別人のようにむくんでいた。その上「友引」のしわ寄せで込み、その日にできず、火葬場に一晩安置され、骨上げは三日の午後一時になった。死後まる四日間経過したわけである。真夏だったらどうなるのだろう。それにしても、こんな習慣はいつごろ始まったのだろう。(中略)友引は何日かおきに巡ってくるが、死者に休日はない。こんな不便な俗習は改めたいと思うが、その勇気もない。皆さんの地方では、どうしておられるのだろうか。
この文の「死者に休日はない」という指摘が重い。人は自身の死ぬ日を選定できないのである。そして、このことは、友引にこだわる人も同じではないか。

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