法話164

三点を仏法に尋ねる

円和寺住職 日種真隆

科学と宗教

すなわち、身体には両手を合わせ、口にはお念仏を唱えておるけれども、心は絶え間なく地獄の業を作っているのが、自分の真実の姿であるぞとわが身を通して味わっていかれたのです。
このように自分を通して考えていくのだということが知られてみれば、先ほどの和上さんがたったひと言、「それは一体だれの…」と問い返されたわけが意味深く味わわれてこなくてはなりません。
このように、あるかないかと向こうに眺め、未来の問題としてとらえるのではなく、それを問うておるわが身自身が、作っておるかおらないかという、今の現前のわが身を通して味わっていくのです。
そして、そこに地獄の業が何であるかということが知られてみれば、作るか作らないかどころではない。作らずにはいられない私であったと痛まれるのです。
かくて、地獄の世界の問題は、科学と宗教のそれぞれの立場をよく理解した上で、
一、仏教の世界観を知る。
二、自分を通して考える。
三、地獄の業とは、一体どういうことなのか。
この三つの点を、それぞれが仏法に尋ねて、聞いていくということでありましょう。
-結び-
公民館で出た一人のお母さんの疑問を通して、「科学と宗教」についてお話を申し上げました。少々長くなり、お分かりにくい面もあったと思いますが、ただ自分の胸に温めてきたものを、出来るだけ分かりやすく進めてきたつもりです。今回で一応終わらせて頂きます。お元気でお過ごし下さい。

入仏法要

大野市元町・円和寺住職 日種真隆

法話164挿絵

おしょう入れをお願いしますという「依頼」は、年に何度かあるのであるが、そのときは違っていた。おしょう入れができるのかという「質問」だったのである。
「自分の家は新家で、まだだれも亡くなっていない。今度お仏壇を求めることになったが、そのとき、おしょう入れをいてもらうのだと聞いている。ところで、亡くなった人がだれもいないのに、おしょう入れができるのか」ということであった。
おしょう入れとは、俗にそういっているのであるが、浄土真宗では正しくは「入仏法要」という。
「入仏」とは、自分たちの家庭の中に、仏様に来ていただくということであり、仏壇を入れるということではない。また、先祖あるいは亡くなった方を、仏壇の中に入れるということでもない。
入仏法要をするということは、今まで仏様のおられなかった自分たちの家に、仏様に来ていただく、仏様をお迎えするということであり、喜びに満ちた慶讃法要(きょうさんほうよう=仏の徳をたたえるお祝いの法要)なのであり、入魂、鎮魂、慰霊ということではないのである。
したがって、自分たちの家に亡くなった人があるなしにかかわらず、勤めさせていただくのであり、信に基づく喜びに上からなされる法要といえよう。
が、現実には「信がない」のであり、私は、この問いはその現状の警鐘であると受け止めねばならないと思っている。

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