法話160

許し合うのは難しい

円和寺住職 日種真隆

科学と宗教

その涙を見ながら、おばあちゃんの言葉をかみしめながら、私は、ああ人間はこんな問題の中でずっと昔から今までどれだけ多く泣いてきただろう。世の中は、昔と比べると、随分便利になり、明るくなったけれど、人間の持つ内の世界は昔も今も、そしてこれから先も、少しも変わりはないではないかと思いました。
そしてその閉ざされた心が明るく開かれて行くためには一体何が必要なのかと考えました。それは思いやりの心、許し合うという心です。だがこの心こそ人間が一番持つことの出来ない心です。
愛し合うことはやさしいが、許し合うことは難しいのです。それはどうしてでしょうか。私は許し合うという心は「共に凡夫である」という自覚に立たない限り出てこない心であり、その自覚は、仏さまの前にじっと座らない限り知られないからだと思います。今のお話でいえば、おばあちゃんはお嫁さんの前に自己を見たのではなく、仏さまの前に見たのです。そして、「共に凡夫である」という思いが、さらに深められて、いたらないわが身ゆえにと受け取られたのです。

黙って使ったことに小言を言うのではない。焦げつかせたことに文句を言うのではない。それどころか、お嫁さんの計らいの原因を、わが身の上に見いだして、かえって申し訳なかったと謝り果てて行く。そこに「おばあちゃん、あんたは何という…」と手を取らずにはいられなかったのです。暮らしの中に生きて働く法(おしえ)、それが真の宗教です。

かたよった”宗教観”

円和寺住職 日種真隆

科学と宗教

法話160挿絵

次に科学が発達したら、宗教は無くなるのではないかという事ですが、これについて私は次のように考えます。まず、なぜこのような考えが出てくるのかという事です。そしてそれはきっと宗教に対するかたよった考え方から出てくるのではないかと思うのです。
つまり宗教というのは、人間の頭では分からないような事が起こった時、それを何かのたたりのように恐れ、人間以上の力にすがって解決しようとして祈ったりした…そうしたところから起こったという考え方です。
例えて言えば、昔の人間が洪水や大地震に遭うと、すっかり恐れおののいて祈ったり拝んだりしている。しかし、そういう原因が科学的に明らかになるとたたりでも何でもないという事になってだれも祈らなくなる。このように科学がどんどん進めば、分からない事も分かってきて、宗教は無くなってしまうのではないかと考えるのだろうと思います。
ここにおいて、私は宗教とはどういうものなのか。また、宗教がどのように分類されているのかという事を知ってほしいと思います。一口に宗教と言ってもピンからキリまであって、その数は実に多いのです。

このように数多くある宗教を普通大きく分けて三つに分類しています。一つには、原始宗教で未開人の間に行われたもので、最も低級なものです。二つには、民族宗教というもので一つの民族だけに信じられているもので、日本でいえば、神道がこれに当たります。そして三番目が世界宗教です。

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