法話127

母の愛こそ仏の心(真実の方向へ呼びかけ)

安楽寺住職 佐々木俊雄

その味わい-よろこび②

仏のこころに一番近いこころは、わが子にそそがれる母のおもいだと申します。私を一番思い、りくつなく私をかわいがってくれるものは、母のこころであります。そこには何の代償も求められていません。
母にとって、子供のよろこびがそのまま自分のよろこびであり、また子供が悲しみに沈んでいるとき、共に胸をいためるのが母のこころなのであります。その母のこころにふれたとき(それは自分が母になったときや、また悲しいことに母の死におうたときだと申しますが)ただ「ありがとうね」と申すより外ないではありませんか。
せっかく人間に生まれてきながら、当然にねがわなければならないことに目もくれず、それとは全く逆の道を歩んでいる私、反省も後悔もなく、ただ何となく暮らし、生涯を送ろうとしている私、そのような私の悲しみ、当然ねがわなければならない真実の方向に立って、私に呼びかけてくださる。より正しい生き方を求められた親鸞聖人は、きびしい自己内省の中から、阿弥陀如来をそのようにいただかれたのではないでしょうか。

法話127挿絵

歎異抄の中に「弥陀の五却思惟の願いをよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人が為なりけり-」とありますが、仏と向かいあわれ、母の愛と同じく仏の心を、具体的にいだかれた聖人のお心がいただかれます。
一日一日の生涯の中で、仏に照らされて、信仰に支えられて真実の道を歩んでいることが確かめられるとき「本願のかたじけなさよ(歎異抄)」との味わいがにじみでるのではないでしょうか。

法話126 トップ 法話128