法話109

年の瀬に現実再現(そのまま救われてゆく真実)

平乗寺住職 神埜慧淳

堀辰雄の〃聖家族"に「死があたかも一つの季節を開いたようだった」と、冒頭の一行でありますがまことに暗示的であります。死とは、一つの季節をつくり出すほどに大きい変化なのであります。想像だにしなかった〃死"の影響により、人はその中を生きるのであります。
それは、亡き人の思い出に生かされるとでも表現したらよいのかもしれません。そういうことを考えながら、年の瀬となりました。一年間のいろいろな出来事が、年の瀬に及んで、新たに、鮮明に感じられたりするのであります。そして、それらのことをかみしめながら、行く年をせつなく思うのであります。

法話109挿絵

時には激しく胸に迫るのでありますが、そんな耳に残っているのが、シューベルトの歌曲集”冬の旅”であります。氷の上を、裸足で、あちこち歩き回りながら、しかし彼の小さな盆には、いつまでも銭は入らない。だれ一人耳をかたむけず、だれ一人目をとめる者もなく、ただ犬だけが、その老人のまわりでほえたてる。すべてをなすがままに、勝手にさせながら…。辻音楽師の一節であります。
自分の人生に重ね合わせて、人々や、今は亡き人々の独生・独死・独去・独来の姿を思うのであります。しかし、なすがままに歩いてきた一年間でありましたが、何か錯覚のようなものに左右されて、その時、その時、実に愚かなことに苦労していたものであります。
死が人生を目覚めさせるように、年の瀬は、よろこび悲しみの日々を再現しているのであります。それは、どうしようもない私の現実だったのであります。そして、そのままが、救われてゆく真実だったのであります。仏かねてしろしめして、と仰せの通りであります。

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