法話072

称名の声が自然に(寝てもさめても南無阿・・・)

明厳寺住職 光山善龍

御報謝の念仏(二)

信心獲得の上は、称名報恩の行に出るのが自然である。しかもその念仏の行は、弥陀如来が要求せられる行ではなくて、仏の大慈悲を知りよろこびにあふれて、自ら口からもれ出る称名であります。弥陀如来の慈悲心の広大を信じて感激の声として、弥陀の名をよび、弥陀をしたうのであります。
従って行とはいうものの、聖道門にみる自力の念仏行とは、全く天地の差がある行であって、十念といっても、数的に十とか百とかを制限したものではない。報謝の念仏である以上、数の多少などは論ぜないが、真実信心の人ならば、常に称名の声は出るべきであります。
蓮如上人は、これを「我が身の後生のたすからんことのうれしさを思ひいださんときは、ねてもさめても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ととなふべきものなり」と仰せられ「また一期の間中す念仏なりとも仏恩報謝の念仏と心得よ」と説かれて、真宗信仰家の生活のあり方を明らかにせられてある。

法話072挿絵

本願の味わいを聞かせていただくのも他力、胸にいただく信心も他力、報謝の声を、今までぐちの多い口から喜びの称名として唱えさせて頂くのも、他力の本願力という底力が動いて下されるおかげであるなど、至れり尽くせりの他力ずくめ、お情けずくめの誓願の尊さが思われて歌となったのが次の歌です。
「広大無辺のみ教えに、永(なが)の迷いの夜が明けて、しずかに合わすこの両手、にじみ出てくるお念仏」と皆さんが口にされている歌であります。

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