法話062

己の姿に目覚めよ (聞法で仏の御本願知る)

演仙寺前住職 多田淳政

無知の知

私たちは、自分は何でもよく知っている。よく心得ていると思いがちです。しかし、時によると、ああ自分は何も知らなかったのだなと気がついて、われながら恥ずかしくなることもありますね。

昔、ギリシャの哲人ソクラテスは「無知の知」ということを言っています。自分は無知だと気付くことが本当の知だということでありましょう。

また、蓮如上人も「心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり」とおおせになっています。自分は何でも心得ていると高上がりすることこそ、まことに鼻もちならぬ、あさましい心であります。

私たち凡夫の心は、煩悩に目がくらまされて、真実を知ることが出来ません。自分が知っていると思うことは、みんな自分の都合のよいように眺めているだけでありましょう。

法話062挿絵

そういう無知の自分、あさましい自分の姿に目が開かれてこそ、本当の知者であり、本当に目覚めた人と言えるでありましょう。

それには、何よりもまず聞法が大切であります。法を聞くことによって、初めて無知の自分の姿に目覚まされ、しかもその無知の私をこそお救い下さる仏さまの御本願のましますことに気づかされるのです。それこそ本当の知恵であり、苦悩の中から喜びと感謝の日々を送らせてもらえる人生が開けてくるのです。

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