法話043

すべてを仏さまに (はからい捨て安らぎを)

正玄寺住職 岩見紀明

おまかせする心(一) 一茶の俳句より

「とる年もあなた任せぞ雪仏」

小林一茶の句です。一茶の句には「あなた任せ」という表現がしばしば使用されています。「涼風はあなた任せぞ墓の松」とか「ともかくもあなたまかせの年の暮」などが有名です。「あなた」とは「われ」に対する「あなた」という意味ではありません。

一茶が「あなた」という表現をする場合、二つの用例があるようです。一つは「あみださま」であり、いま一つは「自然」ということです。したがって「あなたまかせ」というときの「まかせ」は、あみださまの場合は、すべてを仏さまにおまかせするという「他力の信」を意味しておりますし、自然の場合は、自己のはからいをすてて如来のお誓いにしたがう「自然法爾(じねんほうに)」の生き方をうたっているようです。

人々のあいだでは、一茶のいう「あなたまかせ」を「もうどうなってもよい」という「あきらめ」ではないかとか「なりゆきまかせ」というふうに解釈しているようですが、それは本当の安心を知らない人々の解釈というものです。

なぜなら「諦(あき)らめ」の諦という字は、断念するということでなく、真実の道理を明らかにし、ああ、そうかという納得の意味です。

もし思いきったということですと、自分の意思がはたらいて「まかせる」という意味が失われますし、なりゆきまかせということになりますと「あなた」という代名詞の意味が消えてしまいます。
一茶のいう「あなたまかせ」とはすべてのはからいを捨てて、仏さまに託された他力の信心の安らぎを表現したものといえます。

人々に「大安慰」を (阿弥陀さまは「親さま」)

正玄寺住職 岩見紀明

おまかせする心(二) 一茶の俳句より

「ともかくもあなたまかせの年の暮」

法話043挿絵

もちろん、一茶の句です。年の暮れを生涯の終わりに置きかえてうたったものでしょう。人生の辛苦の果てに到達したさとりにも似た気持ちを表現したものだと思われます。

真宗では阿弥陀(あなた)さまのことを親さまとお呼びします。父とか母とは表現しないのです。親さまは人間の性別を超えた存在であるからです。親さまは子供には無差別平等です。

大無量寿経には「一切衆生において視(み)そなわすこと自己の若(ごと)くまします」と説かれてありますように、あみださまは、すべての生きとし生きるものを、自分と同一に見ておられるというお言葉です。

親さまがあみださまなら、私たちは愛児であります。親と子の間には、まったく他人のようなへだてはありません。子供が親の胸もと深くいだかれ安らぐ気持ちの中には、性別を超えた安らぎがあるものです。なんの不安もない安心です。

仏典に「荷負群生(かふぐんじょう)」という言葉があります。あみださまはすべての罪業(つみ)を背負ってくださるのです。人間から畏怖(おそれ)や苦悩を除去して、人々に大安慰(だんあんい)を与えてくださるはたらきがあみださまのはたらきなのです。そのはたらきにおまかせします阿弥陀さま、といって一茶は安心しきっているのです。

人間の苦は生老病死に集約されます。医学も哲学も宗教もこの永遠の問題から離れることは出来ません。仏教もまたしかりです。修行も、くいあらためも出来ない凡夫には、大安慰となってくださる阿弥陀(おやさま)におまかせするよりほか道はありません。


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