法話049

淋しくない

清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲

農村から街に仕事に行きます。街の仕事が忙しくなって、街に居着いてしまう人が多くなりました。農村の古い家には両親が残り、やがてどちらかが亡くなって老人一人が残っているケースが多くなりつつあります。

子供は親に街に来いというが、街へいってもすることもなく、若い者は忙しく、子供は学校にいって不在なので、家に一人いても淋(さび)しい。田舎の古い家に一人いるのと同じだというわけです。

しかし老衰してくると、いつ発病するのか不安なので、子供は親を無理にでも引きとります。公園や道路の金網ごしに、子供のように無心に行きかう自動車をながめている姿をよくみかけます。淋しそうなうしろ姿です。

北欧の福祉国家では、年金や健康保険で恵まれた老後生活を送っていますが、公園で終日無言で日光浴をする人が多く、話すこともなく、むなしさのあまり自殺者が多いという話がありました。

日本でも若い親子でさえ断絶ができる多忙な日暮らしであり、老人一人淋しいのは当然です。そこで田舎へ帰って、独りで草刈りするという老母の話をききました。肉親がいなくても田舎は淋しくない。仏壇があり、お花を供え、お念仏して、仏様とお話ができる。

「一人いて喜べば二人と思え。二人いて喜べば三人と思え。その一人は親鸞なり」のお言葉で、親鸞様とお話ができます。

お寺へ参ればお同行(どうぎょう)がいます。み仏の船にのって同じ道を行く。同じお念仏の行がある。御同胞(おんどうぼう、きょうだい)、御同行と親鸞聖人が申されました。

「どうぞお楽(らく)に」

清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲

法話049挿絵

夏の御本堂は涼しくて好きです。木造の建物の柔らかみが、身も心も包んでくれる感じです。御本尊のみ仏もまします。

私はそこで昼寝をするのが大好きです。京都の御本山に参詣(けい)して、外縁の木の板の上にゴロ寝したら、涼風が気持ちよかった記憶があります。私のお寺の御本堂では、昼はアブラゼミ、夕方は蝸(ひぐらし)の鳴き声が、しぐれるように鳴きしきります。

ある夏、本堂の御本尊前で昼寝をしていますと、お同行に叱(しか)られたことがあります。内陣のお扉をあけたままだったので、御本尊からモロに見下ろされていたことでしょう。

「御院さんともあるものが、仏さまの前で横着な」ことである。「何というバチ当たりな行儀の悪さだ」というわけです。

「でもええもんやで。固いこといわんと、一緒に寝ころんだらどうやネ。親さま(おやさま=み仏)が見守っておいでやで、大安心やぞ」

「御院さんがそんなやで、みんなも行儀が悪いのや。玄関の履きものをみてみい。よそのお宗旨の人は、キチンとそろえているのに、わしらのお同行は、バラバラに脱ぎすててある」

「ええやないか。履きものくらい。悪いことならほかに山ほどあるで」

「一事が万事や。しっかりしなはれ」

「わしがしっかりすることは何もないで。一大事の後生のことは、親さまがしっかりしておいでやでな。難しいこといわんと。そのままや。どうぞお楽(らく)に」

最近はだれいうでもなく、玄関の履きものは、キチンとそろえられています。時代のせいでしょうか。目を三角にして怒ったおじいちゃんが、いま生きていてこれをみたら何をいいますやら。


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