法話046

あまり聞きたくないようだ

清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲

良薬は口に苦しといいますが、お説教はなかなか聞く気になれないようであります。聞かなくても毎日、何とかなっていくからということのようです。

毎日とても忙しいので、聞く暇がないといいます。しかし選挙演説や経済講演などは、時間をつくって聞きにいきます。「何しろ自分にかかわってくることで、いいこともあるかもしれない」ということで、珍しい話を聞きたいという好奇心もあるようです。

ところがお説教の場合「親鸞さらにめずらしき法をも弘めず」とのお言葉ですから、いつ聞いても同じであり、それなら、いずれそのうちでもいいということのようです。

本来、聞法により仏の光に照らしだされて、私自身の姿を知らされるのですから、大いに自分にかかわってくるのですが、そうは考えないわけです。
たまたま機会があっても、まるで他人さまのこととうけとって、聞き捨ての場合もあるようです。自分にかかわったみ法(のり)であると聞き開く聞き方であるべきです。

聞いても聞いても、御法座がすんで帰ってくると、すっかり忘れてよろこべないとか、御法座のときは、ありがたいと思うけれど、すんでしまうと何ともないという人もあります。聞いたら、何か効果があるはずで。それがよろこびだろうが、どうもよろこべないといいます。

しかし、宝くじが当たったというよろこびと、仏法のよろこびとは、どう違うのかを聞きわけるべきでしょう。それは本題を信じ念仏申さば仏となることを聞くことです。

親鸞聖人は「信心よろこぶその人」と申されます。よろこぶための聴聞ではなく、よろこびはその結果です。

あなたは私を愛している

清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲

法話046挿絵

いつもお聴聞していると、お説教を聞きながら、眠りこんでしまう人がありますが、お説教は子守うた、お念仏は鳥のさえずりのようにありがたく楽しくということでしょう。しかし法悦とは別でありましょう。

なれてくると、スズメも田んぼのかかしを怖れなくなり「耳なれ(すずめ)鳴子(なるこ)にぞのる」という蓮如上人のお言葉があります。田んぼでスズメおどしの鳴子がカラカラ鳴っても、スズメがなれて平気になって、鳴子の上にのるようになるという意味です。聞きなれてご法義を軽く思うようになるなと戒(いまし)められました。

ところで、あなたはだんなさまか奥さまに「愛している」とか「好き」とか言ったことがありますか。日本人は「いまさら照れくさくて長い間いったことがない。いわなくても分かっている」というでしょう。

ところが、外国人の奥さまは毎日、だんなさまが「愛しているよ」と、少なくても一回いわないと承知しないそうです。日本人でも若いときは「好き」と何度いわれてもよいものです。

仏さまはいつも呼びかけて下さいます。「み仏を呼ぶわが声はみ仏の我を呼びますみ声なりけり」の歌があります。お念仏がいつも私に呼びかけて下さいます。

蓮如上人はこのところを「自分の心はかごに水を入れたようなものであるという人がいる。仏法のお座ではありがたく思ってもすぐ忘れてもとにもどつてしまうという。それならかごを水につけるように、自分をいつも仏法のなかにつけておきなさい」とお教えです。

いつもみ仏のお慈悲を思っていれば、おのずとお念仏がでるようになります。


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