法話044

幸、不幸に実態ない (主観で楽しみまで苦に)

正玄寺住職 岩見紀明

苦労は自分でつくる 一茶に学ぶ?

「苦の娑婆(しゃば)や桜が咲けば咲いたとて」

小林一茶の句です。大無量寿経に「田が有れば田に憂い、宅が有れば宅で憂う」と説かれている言葉の意味と全く同一の心境でしょう。

一茶の人生は暗い。まま母にいじめられ、十四歳ででっち奉公に出され、弟と財産相続で争い、五十を過ぎて妻をめとり、生まれた子供はつぎつぎと死に、妻にも先立たれ、家は焼け、中風を患い、後添えとは離婚し、三度目の妻は妊娠したが、その児の誕生を待たずに自らも帰らぬ人となりました。

門人・西原文虎は「一声の念仏を期として大乗妙典のうてなに隠る」と「一茶翁終焉記」の中で記しています。一茶が「苦の娑婆や」というとき、本当に実感のこもったひびきをもって聞こえますのも、このような過去をもっていたからだと思われます。

娑婆とはサハーという梵(ぼん)語の訳語です。内面的苦悩や、自然の天災地変に耐えねばならぬところという意味で「忍士」と訳されています。

ところが人間というものは愚かなもので、花鳥風月の楽しみまでも苦の種にしているという嘆息が「桜が咲けば咲いたとて」という表現になったのでしょう。

人間の世界における幸福や不幸は、けっきょくのところ自分の主観の感情がつくりだしたもので、幸とか不幸という実態があるものではないのですから、楽しみまでも苦の種にしないようこころがけたいものです。

慈悲に安らぐ信心 (大悲の仏心宿った世界)

正玄寺住職 岩見紀明

み仏と共に生きて 一茶に学ぶ?

小林一茶の俳句に「涼しさにみだ同体のあぐら哉」というのがあります。この句は、よほど聴聞を重ねた方でないと味わえない句です。

法話044挿絵

縁側であぐらして涼を求めている自分の姿と、阿弥陀仏の坐像とをダブらせて、それを「弥陀同体」という悟りをあらわす言葉で、お慈悲に安らぐ信心の世界をうたった句だと思います。真宗には「仏凡一体」という安心をあらわす言葉があります。この言葉は、仏心と凡心が一体だというのではありません。

覚如上人は「最要砂」の中で「信心をばまことのこころとよむうへは凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり、この仏心を凡夫にさづけ給うとき信心とはいわるるなり」と説かれて、大悲の仏心が行者の煩悩心に宿ったとき、はじめて信心といわれるのだと述べられているのです。

仏心の体は大悲心であります。凡夫の心は迷い心です。凡夫の迷心をおさとりの心にかえることはできません。そこで、阿弥陀如来は、いつでも、どこでも、だれにでもやすくいただくことの出来るみ名として、なもあみだ仏という声のはたらきとなってくださったのであります。このよび声が、私の凡情でお聞かせさせていただく時、私の心に大安心となってあらわれてくださいます。

「涼しさにみだ同体のあぐら哉」重ねられたお聴聞の結果、不幸の生涯に泣いた一茶の心に宿った安心の世界であったと思います。一茶のこの句には、仏凡一体の心境がうかがえます。


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