法話042

勤行に励んだ一茶 (さとりの世界ありのまま)

正玄寺住職 岩見紀明

俳句と信仰(二) 小林一茶の場合

「涼しやな弥陀成仏のこのかたは」

小茶一茶の句です。この俳句に示されるように、一茶の句には理屈がないのです。頭の中で考えられたり、訂正したりすることなく、ありのままがそのまま流れでてきたのでしょう。特にこの句についてはそのような気がします。

ですから、へたな理屈を述べたり、説明を加えたりしないほうがよいように思います。たぶん晨朝(じんじょう)のお勤めのあと、すらすらと筆を運ばせたものでしょう。この句でうかがえるように、一茶は毎日の勤行を怠らなかったものと思われます。

一茶は父、弥五兵衛の死後、財産相続に蔵とりっぱな仏壇をゆずり受けておりますが、その仏壇の前で朝夕、きっと「正信念仏偈」を拝読したに違いありません。

仏教に清涼池(せいりょうち)という言葉があります。言うまでもなく「さとり」の世界を表現した言葉の一つです。こよなく心地よい安らぎを形容した言葉です。すべてを阿弥陀さまにまかせきった安らぎの世界です。

一茶ほどの苦悩多い人生を歩んだ人も、そう数多くいないと思われます。煩悩に燃え、憎悪に心安まる暇のなかった一茶が、阿弥陀さまの御前に、ただ一人、自分のすべてをさらけ出して正信念仏するとき、すべての苦悩を越えて慰められた安らぎを感じたのでしょしう。

「弥陀成仏」のその時から、一茶一人のためにはたらきかけた仏の慈悲をしみじみと感じられたことと思います。勤行後のさわやかな一時が表現された、味わい深い一句であります。

愚かなり権威主義 (判断できぬ人間的価値)

正玄寺住職 岩見紀明

俳句と信仰(三) 小林一茶の場合

「下々も下々下々の下国の涼しさよ」

法話042挿絵

「下座の楽」を詠んだ一茶の句です。古来より、楽は下にありといいますが、名利を離れて自然にふるまう人間こそ本当に気ままなものであります。

最近の流行語に「ブリッ子」というのがあります。かわいこぶっているとか、利口ぶっているという意味です。ぶるといいますのは、それらしくよそおうとかそれらしく見せかけるということです。つまり自分にないものを、あるように見せかけて学者ぶるとか善人ぶるという意味です。

一般に「ぶったやつ」といって、人から敬遠されたり嫌われたりします。したがってぶっている人は(他人のちょつとしたなんでもない言動にこだわり腹をたてるのです。なぜなら、あの人は私を軽べつしているのではないかと疑ってしまうのです。

といいますのは、自分がいつも、そのように人間を上下に眺めて軽べつをしているから、他の人もそうではないかと思うからです。相手が自分より下だとか弱い立場だと徹底的に攻撃し、逆に強い人だとすぐ服従してしまうのです。ですから他人を見ると学歴があるかないか、肩書が良いか悪いかという二価的判断しか出来ません。

こういう人を権威主義的人間と名づけています。自分の生活に中心となるものがありませんから、いつも構えていなければならないのです。「春立つや愚の上にまた愚にかえる」自己の愚を認め人間的価値に価値を認めない一茶の心境が「下座の楽」の旬によくあらわれていて味わい深いものです。


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