法話040

人間は死への存在 (己のはかなさ知るべし)

正玄寺住職 岩見紀明

人の世のはかなさ(一) 一茶の俳句に学ぶ

「露の世はつゆの世ながらさりながら」
小林一茶の悲嘆の句であります。一茶は五十二歳を過ぎるまで妻をめとらなかったようです。もちろん主義のためではありません。「汚れ猫それでも妻は持ちにけり」正直な告白です。生活の安定がなかったからだと思われます。

やっと生活安定の見通しの立った五十二歳の時、二十四歳も若い菊という娘と結婚しました。二人の間に生まれた子供は相ついで死に、妻にも先だたれました。彼はこの世の無常性については、たび重なる聴聞でいやというほど聞かされていたと思われます。

「露の世は露の世ながら」と肯定し、すぐ「さりながら」とぐちっています。言ってもしかたのないことを言ってなげいている様子がよくにじみでています。

人間は死への存在であり、死を意識する動物であります。しかし普通考える死は単なる知識であり観念であります。しかし、それが現実の自己にかかわる死ということになりますと、そういうわけにもいけないものです。

「散る花やすでにおのれも下り坂」不安が隠しきれぬ句です。「白露やいつものところに火の見ゆる」秋の露ははかなくも消えるものです。「いつものところ」とは在所の火葬場のことでしょう。「火の見ゆる」人を焼く火であります。

なんとなく寂しい人生の秋、死を間近にした心境です。一茶が晩年とくに信心深い生活を送ったと聞いていますが、それは人間的な価値のいかにむなしいかを知っていたからだと思われます。

消費と歓楽は無常 (「後世の一大事」こそ大切)

正玄寺住職 岩見紀明

人の世のはかなさ(二) 一茶の俳句に学ぶ

「花ちるや末代無知の凡夫衆」

法話040挿絵

小林一茶の句です。知的水準の平均化した今日の大衆社会で、末代無知だなんて言おうものなら、袋だたきにでもあいそうでありますが、末代とは、仏法心が薄れて本気で仏道修行を行う人のおらなくなった世代のことをいっているのです。また無知とは人生の「一大事」を知らぬ人間のことを言っているのです。

したがって一茶のこの俳句は、蓮如上人の御文章に示された「末代無知の男女」とか「たとえ八萬の法蔵を知るというも後世を知らざる人を愚者とす」と述べられた言葉を意識しなくては詠めない句でしょう。

いまここで末代無知の凡夫衆というとき、それは「後世を知らざる人」ということでしょう。後世とは、短くはあすから、長く言いますと未来永劫(ごう)のということです。

したがいまして「後世を知らざる人」とは、あすからの一大事を知らぬ人ということでしょうから、今日の消費の美徳に酔い歓楽をむさぽっている人々に「花ちるや」という呼びかけで、一茶は存在の無常性を警告していると思われます。

仏教に末法思想というのがあります。釈尊入寂後、一定の期間は正法が保たれますが、像法(ぞうぼう)になって仏教は衰え末法には釈尊の教えだけ残って人心が乱れ濁世(じょくせ)になるという思想であります。

末法という絶望のいま、なにが一番大事であるか、それは「後世の一大事」よりほかにありますまいにと警告をしているのであります。


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