法話033

「自分自身」の間題 (心の持ち方に深く左右)

演仙寺住職 多田文樹

存在と認識−お浄土は確かにある

若い人と、お浄土について話をしていると、だんだんけげんな顔つきになって、私を見るようになります。どうやら、お浄土がふに落ちないようです。行って見たこともないのに、お浄土があるということを前提に話をしているのが、こっけいに思うのでしょう。

なるほど、目に見えるものだったら一目りょう然、くどくど説明をする必要はありません。しかし、目に見えないからといって「ない」と言い切るのはどうでしょうか。

法話033挿絵

話は変わりますが、私は数年前兄を亡くしました。そしてそれまで「人間、死ねばすべて終わりさ」と、割り切っていた私の心に、異変が起こりました。「死ねば終わりと思っていたが、今でも心のどこかに、兄と付き合っているではないか」。

付き合いがあるという言い方はおかしいかも知れませんが、客観的に見れば、すでに「ない」ものであっても、自分の心の上においては、いまだ「ある」ものとして意識し、付き合いさえできるということなのです。

逆に言えば、たとえ毎日顔を付き合わせていても、心が通い合わないなら、いないも同然ということも言えるでしょう。

こう考えてみると、お浄土が「ある」とか「ない」とかを議論するのは、あまり意味がないように思えてきます。お浄土は、どこまでも自分自身の問題です。そして、お浄土を通して、仏の慈悲と知恵を知らされるとき、私にとって、かけがえのないものとなるのです。

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