法話024

我執から抜け喜び (煩悩も仏の本願力で解放)

西光寺前住職 吉田俊逸

私が居れこそのこの私

私の毎日は一つのことにとらわれて、いつまでもいつまでも、くよくよしたり悲しんだり悩んだりの連続です。その一つのことから逃れようとすればするほど深みに入ってゆくのです。むしろ逃れようとしながら苦しみの泥海にはまってしまって、どうにも抜け出すことが出来ないのです。

仏教の教えの中に諸法無我という教えがあります。あらゆる法に我執してはならないということです。しかし私はどうでしょうか。私がいるからこそ、私が働くからこそ、私が面倒を見るからこそ、といつでも私を中心にして暮らしてはいませんか。

法話024挿絵

一度その反対のことに気をつけてみましょう。私は働かねばならないのだ、面倒を見なければならないのは私の責任であって、人のためではないのだということです。おれがおれがの我執をしてはならないと知りながら、我執の中から抜け出ようとも思わず、むしろその中にいることをややもすれば人知れず楽しんでいるのではないでしょうか。

家庭やその他すべてのことに執着していた私が、それが間違いのもとです。自分が中心的存在と考えていたことが、皆さんのおかげで私が存在していることに気がつかさせていただくところに本当の喜びに目覚めることです。なんとお恥ずかしい私であったということです。

諸法無我のこの教えこそ、私の喜んで生きる道を示して下さっていられるのです。親鸞聖人は和讃の中に「本願力にあひぬれば、むなしくすぐるひとぞなき、功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水へだてなし」とお諭し下さっています。おれが私がの煩悩の泥海も仏様の本願力にあわさせていただいた時、いつも親の心の中で生かされているのです。

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