法話016

「遠流」これもご恩 (苦難を乗り切る勇気が)

丸岡高校教諭 森瀬高明

さぴしからずや道を説く君−教師と生徒?

親鸞聖人が、法然の忠実な弟子であるという理由で越後の国へ遠流(おんる)になった時、聖人は権力を難詰しないで「これなお師教の恩致なり」とおっしゃいました。

正当な布教活動をしているのに、これをゆがめて流罪を課せられたことは、全く不当であります。従って現代人の常識から考えますと、その権力の不当さを徹底的に批判すべきでありましょう。ところが、親鸞聖人は「これもお師匠様のご恩なのだ」とおっしゃったその心は尊いものがあります。

法話016挿絵

阿弥陀仏の「お救い」に従うことが「南無」であると聖人は教えて下さいましたが、その「南無」の働きは、仏様の救いに素直に従うだけでなく、次のような働きがあることを忘れてはいけません。

仏様のお慈悲をいただいた私は、仏様のお慈悲の心にそむかないような日暮らしをさせていただく身であるはずなのです。

阿弥陀仏のご恩の深さを真に喜べるならば、当然この世で受けなければならない苦難の生活に対して、それを乗り切る勇気もでて来ます。「こうしては絶対にいけないのだ」ということは、歯をくいしばってもやらない。その生き様の「シン」の強さが教師には要求されるのです。

教え子も年齢が高くなればなる程、その人間関係の中で守るべきタブーが増えて来ます。一般の社会人相互なら当然許されるようなことも、師表と仰がれる立場の者には許されません。生身の教師が、その尊い使命感を守って「べからざる」ことは一切しないことへの決意。「さびしいからずや道を説く君」すがすがしい決意として受け取るべきでしょう。

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