法話009

如来の願いの中で (仏を拝む事実を通して)

勝林寺住職 佐々木教応

顧いに生きる(二)

がんぜない赤子が、日一日と育ってゆく姿を見ながら、そこに目に見えない母の願いを見ることが出来ます。目に見えないものは常に見落としがちです。その見落としやすい、気づきにくいものも、見える者を通してほのかに感知することが出来ます。

仏様も仏像を通して概念的にはわかっているようでも、実体的にはその存在を疑っている人が多いのではないでしょうか。いわんや仏様から願いをかけられている、仏の願いの中に生きている自分ということなどおよそ考えられないことでしょう。

法話009挿絵

でもただ今の私という確かな存在を通して、仏の願いの中にはぐくまれていることを知らされます。口にお念仏すること一つを拾ってみても、そこに如来の願いが私の上に働いていて下さることを知らされます。

元来凡夫の口からお念仏を申すなど木によって魚を求めるにひとしいことです。それが今現にお念仏が口から出て下さる。手を合わせて仏を拝む。この事実を通して仏の大いなる願いの中に生かされ、育てられていることを疑うことが出来ません。

阿弥陀仏の本願(仏の願い)は、南無阿弥陀仏のみ名となって、私たちの苦悩の中に飛び込んで、すべての者の悲しみを、自己の悲しみとして抱きとって下さるのです。

善導大師が「衆生貪願煩悩中、能生清浄願往生心」と仰せになっているように、三毒の煩悩の泥田の中に如来自らきたりて、浄土に生まれる幸せな身にさせて下さる。このような尊い仏の願いの中に包まれていることの喜ぴが、幸せが、やがて私の上に降りかかってくる災いも、それを受けとめ、いやむしろそれを転じて強く生きる新しい道が、念仏申す者のよい人生ではありますまいか。

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